スペインはまだまだ掘り起こされていない価値あるものの宝庫。 セゴビアの郊外、観光地の喧騒から少しだけ離れた場所に、静かに時を刻む修道院「サン・アントニオ・エル・レアル」があります。
15世紀、“不能王”と呼ばれたエンリケ4世によって建立されたムデハル様式の離宮は、のちに修道院へと姿を変え、今日まで宗教的役割を守り続けてきました。ここは、知る人ぞ知るスペインの奥深さを肌で感じられる特別な場所。しかも敷地の一部はホテルとしても利用でき、スペイン王家の歴史を身近に感じる、まさに秘密にしておきたい宿泊体験が叶います。
修道院のチャペル入口には、今もエンリケ4世の紋章が残されています。ここは現役の修道院であり、空間のほとんどが当時の姿を色濃く残しています。壁や装飾の一部には時の流れによる傷みも見られますが、それもまた魅力のひとつ。近代的な修復は必要ではあるものの、場合によっては本物志向の旅人に少し寂しさを与えることもあります。だからこそ、修復される前の“生の姿”を目にできる今は、とても貴重な時間なのです。
この部屋はエンリケ4世の時代には王の私室に近く、おそらくリビングとして使われていた場所。修道院になってからは祈りの空間となり、宗教的な意匠で覆われています。
唯一、当時のまま残るのが、スペインが誇る木造格子天井。全面に絵が施され、王と女王の紋章も描かれています。王の寝室の天井が今も残っていること、その美しさには感動せずにいられません。
キッチンも当時の位置から移されておらず、土間のようなスペースからは、さまざまな食材が運び込まれた光景が目に浮かびます。注目してほしいのはその床。小石と羊の距骨を使って舗装されており、距骨は古代から玩具などにも利用されてきましたが、中世の優れた建築ではモザイクのように床材として使われていました。磨き上げられると象牙のような光沢を放つというその床は、本当に美しい幾何学模様を描き出しています。
今回私が訪れた理由のひとつは、このパティオ(中庭)をもう一度見るためでした。長い歴史の中でアーチの間に窓が取り付けられるなど、元の姿は改造されてしまっていますが、ここはムデハル様式の王家の宮殿跡。修復が施されれば、信じられないほど美しい空間に蘇るでしょう。ムデハル様式の宝石と称されるグアダルーペを訪れたことがある人なら、このパティオがどれほどの美しさを秘めているか想像できるはずです。
ムデハル様式とは、イスラム、キリスト教、ユダヤ文化が融合し、木、レンガ、タイルなどの素材に独特のリズムと文様を刻み込んだスタイル。素材の性質上、壊れやすいという弱点がありますが、唯一無二のスペインらしい世界観を生み出しています。
写真はレフレクトリオ(食堂)。修道女たちがここで食事をしていたため、小さな茶色の扉が並び、その中には各自のピッチャーや皿が収納されています。
小さな階段を上がった場所には、ムデハル様式の幾何学模様をあしらった説教壇があり、カラフルで洗練された装飾が施されています。
格子天井の美しさに導かれながら、修道院の最も重要なエリアへと進むと、途中にはエンリケ4世が選んだ北方ルネサンス・フランドル派の彫刻が数多く並びます。彼が優れた美術品コレクターであったことは明らかです。
この宝物館のような間の格子天井は完璧に残っており、院内の貴重で珍しい品々が保管されています。 エンリケ4世は、ある意味で悲劇の王。「不能王」と呼ばれ、同性愛者との噂もあり、政治的にも苦しめられました。世継ぎであるはずの王女も、彼の側近で寵愛を受けたベルトラン・デ・ラ・クエバの娘と疑われ、最終的には有名なイサベル女王が後継者となり、スペイン王家の歴史は続いていきます。この後継者問題は内戦にまで発展し、歴史を大きく動かす出来事となりました。
また、エンリケ4世が王妃を妊娠させるために使ったとされる「金の筒」=人工授精のための道具の逸話は、古くから知られた史実として語られています。まさかこの修道院に、その筒が密かに残されているとは思いもしませんでした。
銀製の聖アントニオ像が収められたショーケースの隅に、その金属筒はひっそりと隠されていました。言われなければ見落としてしまうほどの小さな筒です。史書には「金の筒」と記されていましたが、これは銀製。もしかすると金のコーティングが剥がれてしまったのかもしれません。
もし作り話であれば、もっと大きく展示されているでしょう。ところが、ガイドは私たちに内緒話のようにそっと教えてくれたのです。
このショーケースの中に入った銀製聖アントニオ像の、隅の方に隠れてその金属筒はありました。
見えますか。言われなかったら絶対に見落としてしまうようなものです。
歴史好きであれば、この「金の筒」こそ訪れる理由になりますが、芸術的な視点からは、15世紀の宮殿跡を静かに歩き、当時の王たちの美意識に触れられることこそ最大の魅力です。
これほど完璧に残るトラスタマラ王朝の建築は珍しく、しかも静かに見学でき、宿泊も可能な場所はほとんどありません。
最後にもうひとつ、エンリケ4世のコレクションから、フランドル派彫刻の傑作をご紹介します。この作品だけを目的に訪れても惜しくないほどの名品で、彼がどんな想いで美術品を集めたのか、そこには祈りが込められているようで胸が締めつけられます。
冬季は修道院が閉館していることもあるので、訪問の際は必ず公式サイトで確認してください。ホテルは通年営業しています。
これがエンリケ4世の姿。
スペインでは「歴史は触れることができる」とよく言いますが、まさにここは15世紀へタイムスリップできる場所。木彫りの天井には王の夢が刻まれ、石の回廊には狩猟を楽しんだ人々の笑い声が今も響いているようです。
有名なパラドールとは一味違い、修道女たちによって守られてきた修道院で一夜を過ごす贅沢。歴史ファンなら言葉にならない感動を覚え、スペイン史の世界にますます惹き込まれることでしょう。
中世と現代が調和する空間は、旅人の心に確かな足跡を残してくれます。

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